矢野 博丈(やの ひろたけ)さんは、100円均一「ダイソー」の創業者です。
高品質と低価格を誇る商品が充実していて、今や誰もがお世話になっている100円ショップですが、このダイソーを作った矢野さんが、1964年の東京オリンピックの強化選手だったことや、中国生まれであることは、あまり知られていません。
今回は矢野さんの歴史を紐解きながら、その人物像に迫ります!
矢野博丈のプロフィール
名前 |
矢野 博丈 |
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読み方 | やの ひろたけ |
生年月日 | 1943年4月19日 |
出身地 | 中国北京市 → 広島県東広島市福富町 |
居住地 | ー |
身長・体重 | ー |
血液型 | ー |
最終学歴 | 中央大学理工学部二部土木工学科卒業 |
所属 |
(100円SHOPダイソー) |
矢野博丈の経歴
矢野博丈さんの経歴を生い立ちから紹介いたします。
矢野博丈の生い立ち
矢野さんは中国北京市で8人兄弟の5男として生まれましたが、日本の敗戦後、お父さんの郷里である広島県東広島市に引き揚げてきました。
中学生から広島市に転居し、広島県立広島国泰寺高等学校に進学。高校在学中はボクシングに熱中し、1964年東京オリンピックの強化選手に選ばれたという経歴の持ち主です。
その後中央大学理工学部に進学し、1967年に、二部土木工学科を卒業しました。
お父さんは広島では最底辺の貧乏医師で、矢野さん自身も中央大学の2部に進学したものの、生活は貧しく、大変苦労したといいます。
その後、奥さんと出会って学生結婚。これを機に、現在の姓名に改姓・改名し、奥さんの実家のハマチ養殖業を継ぎましたが、経営難により3年で倒産。
700万の借金を負い、一度は夜逃げしましたが、その後、東京に上京してちり紙交換業で成功し、完済できたといいますが、現在のダイソーの快調ぶりを見ると、ちょっと想像ができませんね。
矢野博丈が100円均一を確立するまで
奥さんの実家の事業が破綻した後、セールスマン、ちり紙交換、ボウリング場勤務など、9回の転職を重ねた矢野さんは、1972年に、雑貨をトラックで移動販売する「矢野商店」を創業しました。
移動販売は当時「バッタ屋」と呼ばれており、倒産した企業や、資金繰りが苦しくなった企業の在庫品を、現金で格安価格で買い取って、安値で売るという手法を取っていました。
決まった店舗を持たない矢野さんは、スーパーの店頭や催事場、公民館前の空き地などを借り、商品の陳列、補充、会計までを一人で行って商売を続けたといいます。
その後、均一価格での商売を行う店舗に弟子入り。その当時、ワンコインで買い物ができる100円ショップはありませんでしたが、100円、500円、1000円といった、均一価格での商売は既にありましたが、一人で切り盛りしていた矢野さんは、忙しくて値札をつけるのが間に合わず、元々は100円以上で販売していた商品も、全て100円に統一してしまったといいます。
そのおかげで、今、高品質な商品を100円で手にできていると思うと、ありがたいエピソードですね。
矢野博丈のダイソー創設まで
当時、矢野さんのようにバッタ屋から小売りを始めていた仲間はたくさんいましたが、1970年代のオイルショックで、次々に商売から離れていったといいます。
ですが矢野さんは1977年に、のれん分けの形で「大創産業」として法人化。
この頃大創産業は、大手量販店のダイエーに、6割もの商品を卸していましたが、そのダイエーの中内㓛オーナーが「催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」と発言。
矢野さんは会社を潰さないよう、ダイエーのお客さんが流れてくる位置に100円ショップを開店。これが、現在の店舗型のダイソーの始まりになりました。
1987年、「100円SHOPダイソー」として正式に展開に着手し、1991年最初の直営店を高松市に出店させて、チェーン展開を本格化。
バブルがはじけて長期不況に突入した1990年代後半、日本中が生活レベルを落とすことを余儀なくされる中で、安くて高品質な商品を提供し、一気に波に乗って急速に売上げを伸ばしました。
同業他社が100円均一事業に参入したことで業界が活性化し、店舗網が全国に広がったことも追い風になって、100円ショップという業態が、世間に新しい小売業として認知されたことで、マスメディアも注目。
現在では国内3150店舗、海外1800店舗の100円ショップのトップ企業になりました。
バッタ屋でスタートしたとは思えない成長ぶりに一番驚いているのが、当の矢野社長だといいます
矢野博丈の経営理念
そんな矢野さんですが、経済団体に参加せず、インタビューもほとんど受けず、マスメディアにあまり登場せず、その人物像は詳しく明かされていません。
ただ、高校の同窓会で語っていたという言葉にヒントがありそうです。
「「縮む世紀」とも呼ばれる21世紀、人にどう貢献できるのか、生き残るには企業として善、徳を積むしかなく、そのためには社会貢献をしなければならない。これからの企業の生きる道はそれしかない。」
このコロナ禍で、更に「縮んだ」世界。
矢野さんが次に何をするのか、注目していきたいと思います。